医学部の研究棟の廊下で、九大病院長でもあり、臓器移植関係でTVの記者会見に映っているのは見ても、教授回診の時以外滅多に会わない、多忙な上村教授とすれ違った。「国家試験はどうだった?」と聞かれ、「ギリギリで受かったと思いますが、よくわかりません」と答えると、「まあ、あんなのはクイズみたいなもんだからなぁ」と言って教授室に入ってしまった。教授は、国家試験委員をやっていたことがあるので、まさにクイズを作っている感覚だったんだと妙に納得した。臨床実習などで学生には優しいが、医者には滅茶苦茶厳しかった。エリートと呼ばれた、旧制五高(熊本)の出身で、回診中、医者がすぐに質問に答えられないと、「数学や物理じゃないんだから、考えても無駄だ。医学は知ってるか知らないかだ。早く答えろ!」といった調子で、医者は皆ピリピリしていた。看護婦さんに聞くと、格好いいから好きという意見が多かった。患者さんは主治医が怒られるのを不安そうに見ているわけで、医者の患者からの信用はがた落ちになる。
なお、教授の専門はめまいの研究だったので、生理学、つまり数学や物理ができないと確かに困る。旧制福岡県立中学校、旧制第五高等学校理科乙類(独語第一選択クラス)では優秀な成績を修め、新制大学に移行した九大医学部に入学したのであろう。
国試の発表は、福岡市博多区の国の合同庁舎であった。
発表が近づくにつれ、毎日胸が締め付けられていくように緊張した。
一番元気のよかった、それまで福岡市内県立御三家から、九大医学部現役合格、最短卒業(ある教授が厳しく留年が多かったらしい)とエリートコースを歩んできた同級生も、次第に口数が少なくなってしまった。
一方、自己採点で自信のあった同級生は余裕しゃくしゃくだった。
そろそろ発表時間だということで、医局長に断って(「遊んでないですぐに帰って来い」と言われ)、8人が札(幌)(北大)、北九州(山口大)、福岡(山口大)ナンバーの車3台に分乗し、午前10時の発表を見に行った。
受験地(8か所だったと思う)ごとに並んで受験地別の合格番号表を見る方式で、東京受験組は、10人くらいしか並んでいなかったので、冊子になった受験番号表をすぐ確認した。合格を確認し、飛び上がって喜びたかったが、他の同級生の結果がわからない。福岡のところは長蛇の列。
最終的に、8人のうち2人が不合格。我々の代は研修医6人になった(2人は宅浪し、翌年無事に合格し、耳鼻科に入局)。それまでも、入院患者さんから「先生」と呼ばれていたが、本物の「先生」になった。
携帯電話の普及していない時代、公衆電話から母にはすぐに連絡した。九大病院に電話して皮膚科教授室に繋いでもらい、心配で仕事が手につかなかったであろう、父に報告した。「これでお前も一人で生きていけるな」と言われたときには涙が溢れ出た。後で聞いたところ、皮膚科は全員合格とのことだった。
翌日、それまで同様夜遅くに帰宅すると、朝刊の東京地方版に名前が載っていると、父方の祖母から電話があったと聞いた。孫で医者になったのは私が初めてだった。
なお、その年の国家試験合格率は現役、浪人併せて総合で約80%だった。当時、医学部の定員が全国で80校で8,000人。浪人が2,000人くらいで、1万人受けて、医者が8,000人誕生したことになる。今は地方の医者が足りず、各大学の定員を増員し、また、県立・市立大学でもないのに、受験の機会の不平等との反対を押し切り“地域枠”ができたり、大学が2校新設されて、医学部総定員は全国で1万人になった。昔から、僻地医療に貢献する医師には、自治体から驚くほど高額の給与が支払われるが、それでも専門医になるための症例が集まらない地方の病院は人気がなく、医者が足りなくて、現在、医師国家試験合格率は90%にまで上がって(上げて)いる。しかし、どうしても東京や大阪といった都市部の病院に医者が集まり、地方の医者のレベルは決して上がらない。「一県一医大」の存在意義もなくなってしまった。地方大学は慢性的な人手不足に陥り、大学医局の命令で動く、都市部と地方を数年交代で行ったり来たりする指導する立場の医者がいない。地域枠の医者も、最も重要な最初の約10年を出身地に縛られてしまう。自治医大や防衛医大の出身の医者が長年悩んできたことである。
医師の病院派遣の中心だった、大学の「医局講座制」(研究、教育機関としての「講座」(「教室」ともいう。第一内科学講座, 耳鼻咽喉科学教室など)が「医局」(附属病院、および関連病院の診療科のこと)の人事と一体化(教室員、医局員)したもの。各講座の教授に人事権があり関連病院長にはない)を、厚生労働省が壊したのが地方の医師不足の原因であると年配の医者は皆知っている。いくら最初に市中病院で研修しても、就職できるわけでもなく、一か所の病院では経験できる症例も限られ、結局は大学に戻らないと研究もできず、専門医も取れない。研究(博士)をとるか臨床(専門医)をとるかという、文部科学省と厚生労働省の縦割り、縄張り行政の弊害であろう。
6月から、非常勤の文部省国家公務員、「医員(研修医)」としての生活がスタートした。
この時点では、厚生省健康政策局長(厚生技官医師ポスト)発行の“医籍登録証”のハガキしかなく、正式な医師免許証は一か月くらいして、病院の事務に研修医全員分が送付された(登録証も同じだったが、申請時に送付先は実在しない“研修医宿舎”を記入するように言われていた)。
初めての病院に出張に行くと記入するので、医籍登録番号と登録日はすぐに覚えた。免許証も本来は原本提示が原則だが、当時は、複写提出でも問題はなかった。大学病院事務で確認済で、医局派遣の場合は身元がしっかりしていたからであろう。コピーを持ち歩くのが邪魔だということで、普段からA5サイズに縮小したものを車の中や鞄の中に入れておき、病院で元の大きさのB4サイズに拡大コピーしてもらうという強者もいた。
かなり後で知ったことだが、お札と同じく大蔵省印刷局で製造され、透かしが入っていた。