入院患者の耳鼻科的な局所処置は診療ユニットが外来にしかなかったので、外来診療の合間や終了後に、病棟ナースが入院カルテをワゴンに載せて、病棟患者を連れてきて外来で行なった。その為、病棟の仕事は、ガーゼ交換と手術記録と点滴の処方を書く以外、楽勝だった。注射や採血はすべてナースがやってくれた。
地元採用の人もいたが、労災病院は全国に自前の看護学校を持っていて、主に熊本の看護学校卒の子が働いていた。みんな若かったが、婦長、主任クラスでも30代が多かった。
労災病院の特殊な業務として、労災認定の診断書や意見書の作成があったが、裁判になることもあるからと、上司である部長が作成してくれた。
耳鼻科は整形外科との混合病棟だったので、整形外科の医者とは親しくなった。私と同じく下で来ていた先生(既婚)とは特に親しくしていて、婦長からは「二人は“心の友”(マブダチ)ですね」と言われていた。
当然、病棟の宴会は一緒だし、そのあとに行く飯塚市(まだ合併前。麻生太郎元総理の地元)の、天井からミラーボールがぶら下がっている、ダンスホールを借り切り、cheek dance とナースたちが延々と続くカラオケでストレス発散していたのを思い出す。みんな純粋でいい子ばかりだった。
独身の彼女たちの多くは、看護婦宿舎に二人相部屋で住んでいて、ほとんどが自家用車を所有していた。
狭い町でもあり隣の飯塚市も含め、駐車場があって夜食事ができるところは限られていた。店に入ると誰かに会うことは多かったが、向こうが集団の場合は手を振るくらいだが、1人で座っている時には、なんとなく一緒に食べることになる。「先生、ご馳走さま~」と別れ、それぞれのクルマで病院に帰った。
翌日、「堀先生と○○ちゃんが付き合っている」という噂が知らないうちに広まり、「先生、本当なの?」。
耳鼻科部長の耳にも入り、部長室に呼ばれ、「付き合うのは本人同士の自由だが、ちゃんと責任を取りなさい」と釘を刺されて大変だった。
外来が終わると、急患のいないときは、医者数人(耳鼻科、眼科、小児科が多かった)で外に食べに行ったり、夜は時々飯塚に飲みに行った。
眼科の先生は、八幡の産業医大出身で、労災病院勤務がdutyだが、杉並区の出身で私の母と同じ都立西高出身だという。
なぜ、東京の労災病院や企業に勤務しないのかと聞くと、九州が気に入ったので、しばらく住むとのこと。今も福岡に住んでいるのかも。
小児科の先生は、内分泌が専門だったが、1人医長にも関わらず、ものすごい仕事量をこなしていた。発熱の子供は、必ず鼓膜も診ていた。今時の若い小児科医は甘やかされすぎだと思う。
一泊二日の四国への病院旅行は、病院を土曜休診にして行ったが、ほとんどの医者(確か全員男)が参加した。女性ばかり多くて釣り合いが取れないからと、事務長(労働省からの出向)が参加を要請したらしい。
私は写真でしか見たことのなかった、真新しい瀬戸大橋を通っての四国入りだった。
仲の良かったナースの提案で、金毘羅さんの石段を駆け上がり、誰よりも早く登り着き、抱き合って喜んだ。帰りの岡山駅までの観光バスの車窓から見える瀬戸内海の景色は最高だった。
労災病院での診療に慣れてきて一月くらい経ったころ、耳鼻科部長が、「君は恐らく耳鼻科で一生やっていくんだろうから、耳鼻科の勉強なんかより、時間のある時は、全身麻酔、救急、循環器内科の先生による心電図の勉強会(これだけは朝、私だけ途中でドロップアウト)をしなさい。」ということで、各科の先生に頼んでくれて、午後に耳鼻科の手術や検査がないときはいろいろやらせてもらった。大学では気楽には出来ないことばかりだった。全身麻酔に関しては、外科の先生も手術のことをいろいろ教えてくれて、全身麻酔は今も主流の新しい麻酔薬が出たばかりで、麻酔器の薬を切ると覚醒が早かったのが楽しかった。整形外科の脊椎麻酔も何度もやらせてもらった。いざというときは、すぐに全身麻酔に切り替えることができるようにしっかり準備した。
さて、厳しい大学と一般病院での2年間で、他の大学の5倍くらいの症例を経験し、外来も一通りこなす自信がつき、手術も簡単なものは出来るようになった。
これでいつでも開業することができる。
九大の関連病院は全て「耳鼻咽喉科専門医研修施設」に指定されていたので、あと3年(5年間の臨床経験が必要)で専門医試験受験資格は満たせるが、専門医や博士はオプションでしかない。のんびりしているし、許されるのなら、あと数年いてもいいかなとも思った。
しかし、若いうちしか研究はできない。臨床に飽きている感じの内科の先生も見てきた。
12月初め頃、次年度の希望を医局長から聞かれた私は、2月に入学試験のある、大学院進学を希望した。
まさか私が院にまで行って研究するとは思わなかったらしく、驚いていた。
後日、「人手が足りないから無理だ」と反対された。「どうしても院に行きたければ、やる気を態度で示せ。具体的には、急患や緊急手術がない時には、週1回の大学の抄読会に参加して、お前も発表しろ。これはdutyだ」。2人発表する抄読会は午後6時過ぎから始まり8時過ぎに終わる。真冬の頻繁に凍結する筑豊の道路を、スタッドレスタイヤを履いていなかった為、タイヤチェーンを携行し往復した。
年が明け、労災病院での症例報告を学会発表することになり、相談と準備の為に大学に週2日程度行くようになり、そのうちにdutyは解除された。
久留米大学講堂で開催された日本耳鼻咽喉科学会福岡県地方部会(九大、久留米大、福岡大、産業医大4校の持ち回り)の学会発表では、久留米大学の平野教授から褒めていただき、共同演者の部長の先生、手術の応援の(星を一緒に見た)先生からも「褒めてもらってよかったな」と言っていただいた。
後になって、基礎研究室の抄読会では、論文の選定が悪いということだけで、あるいは引用文献の内容をしっかりと調べていないために質問に答えられず、やり直しをさせられることもあり(幸い私は大丈夫だった)、論文を読むのが趣味のような人たちに囲まれて、耳鼻咽喉科臨床大学院生になる医局員が苦労しないようにとの親心だったんだと気付いた。
研修医1年目のときの耳鼻科の抄読会でもそうだったが、難解に感じた医学・科学論文が、英語自体が大学2年次の教養の英語(それも文学と時事英語)以来疎遠だったことと、馴染みのない専門用語が多いから難しく感じるのであって、高校でやる難しい構文などは使われず、中学3年生レベルの平易な英語で書かれていることが分かった。
私は大学にいるときには院に行こうとは考えていなかった。いや、そんなことを考えている余裕がなかったというのが正しい。ただ、癌の患者さんばかりの病棟に戻って、得るものがあるのかとは漠然と考えてはいた。
「研究」しているという院生がフラッと、「オールナイトで実験するんで、バイト代わってくれない?」と病棟に来るその姿が格好良かっただけかもしれない。
実際、大学院での生活は、予想していたのとは違い過酷なもので、院生の間では「4年間の懲役」とまで言われていた。
最終的に、耳鼻咽喉科上村教授と仲の良かった、生体防御医学研究所遺伝学部門の笹月教授の研究室で免疫を研究することになった。
大学院入学願書を提出するにあたり、上村教授に挨拶に伺った。
教授は、「君の人生だ。好きにしたらいい。しかし、決めたのは君だ。笹月先生は世界的な研究者だ。私にも何をしているのかわからない。学力的なことは本質的な問題ではない。真剣に取り組めば必ず道は開けるはずだ。辛いことも多いだろうが、頑張れよ」と激励して下さった。
教授室を出た後、研修医の時の教授回診で治療法についての質問に答えられず、「ちゃんと調べとけ!」と怒られて、続けて「君は義経の弓の話を知っているか?」と聞かれるも答えられず、秘かに図書館で調べたこと。学生の講義係の翌日、病棟に秘書から電話があり呼び出された。何事かと慌てて教授室に行くと、講義録の取り方が悪いと注意され、内容が足りないから書き直すようにと言われた。スライドを映すのに必死で、スライドの内容に加え口頭で説明したことを思い出しながら、夜の医局で「みんな一度は通る道だ」と先輩に言われながら書き直した。「これでよろしいでしょうか」と書き添えて秘書の机の上に置いた。次の回診の時には何も言われずホッとしたこと。これは自分が主治医の患者を教授が執刀した手術の手術記録でも同じだった。日本語の助詞や言い回しにも細かく添削が入っていた。教授外来診察の陪席で「こいつ解ってないな」と呆れた顔をされたことなどを思い出して恥ずかしくなった。
労災病院を休ませてもらって受けた入学試験では、私一人の為に作成された耳鼻咽喉科の論文試験が2問出題された。私の答案用紙を見た上村先生は苦笑いしたことであろう。英語と医学部教授7人位による面接試験は、まあまあ出来たということにしておく。ドイツ語は前年までで廃止されていた。
振り返ると筑豊での生活は、耳鼻科部長のご指導の下、医者として初めて外来患者を続けて診察し、検査、入院、手術まで持っていき、退院後も再び外来で診察するという一連の医療行為を体得できただけでなく、ナースをはじめ職員から大事にしてもらい、飯塚に行けば美味しいものも食べることができ、充実した一年だったと思う。
最終勤務日の平成4年3月31日の夕方、何人かの病棟ナースが「先生が東京で開業するときには、私たちも雇ってくださいね。必ず行きますから!」と言って、駐車場で見送ってくれた。社交辞令とはわかっていても、嬉しかった。
筑豊労災病院(2004年)
同級生の結婚式に行った際に、翌日天神からバスで飯塚まで行き撮影したもの。
飯塚で食事して福岡空港までバスで行った“Sentimental Journey”。
大学院生になることが決まったときに、解剖学教室に文部教官助手として残ることになった先輩(現在国立大学解剖学教授)から、耳鼻科の臨床大学院生の先輩方が開拓し、代々引き継いでいたある病院の休日当直の仕事をもらい、月に一度この写真を撮影した、国道201号線八木山バイパス(国道16号線「東京環状」八王子バイパスと同様、道路公団管理で当時は500円の有料道路)を通って、筑豊の病院に行っていた。
ほとんどの研究室では、院生のバイトは週に一日までに制限されていて、耳鼻科では内科や外科と違い当直の仕事がないため不利だった。大学への授業料の支払いの心配はなくなった。勉強しようと、普段読めない沢山の論文のコピーを持って行っても、テレビや雑誌ばかり見て、ほとんど何もせずに帰ってきた。先輩方も同じだったらしい。
途中で労災病院の部長は交代したが、土曜日に早めに実験を終わらせ、病院に立ち寄ったことが何度かある。
数年経っても、医者もナースも顔ぶれはほとんど変わらず、耳鼻科の新部長も私が1年目の時に山口日赤病院に赴任するまで、大学でお世話になった先生で、勝手知ったる耳鼻科外来で、研修医や外来ナースと、病棟ナースも呼んでもらい、「先生、勉強頑張ってる?」とか言われながら、みんなで患者さんから頂いたお菓子を食べながらおしゃべりした。研究室の緊張した雰囲気から解放されたひと時だった。
中央が病院本館、左側に一部見えているのが内科病棟。
三角屋根の2つならんでいる建物が単身者用の公宅。
病院に近いほうが、私の部屋のあった建物。
奥に、家族用、看護婦用と続く。
現在、病院は譲渡され、飯塚市立病院となっている。
九大耳鼻咽喉科は撤退した。
私の見たボタ山も上の写真と同じで、石炭の黒色ではなく、緑の山。
乗ったことはないが、2001年まで、博多~新飯塚は電化されてなく、ディーゼルカーの運行。
福岡市内へは、西鉄バスが飯塚市中心の新飯塚駅前のバスセンターから出ていた。