福岡に住んで、両親ともに東京市出身、東京生まれ東京育ちの私が、まず苦労したのは方言だった。
「片づける」が「直す」くらいは知っていたが、「それ直しとって」と実際に言われると「えっ?何も壊れてないだろ?」と思った。
若いナースの「~するっちゃんねー」(~するんだよねー)はかわいらしいと思った。
子供の疑問符は「~すると?」のように「と?」。「痛いと?(最後が上がる)」(痛いの?)。返答も何故か「痛くないと(下がる)」(痛くないよ)。
「はよせんね!」(早くしなさい!、早くしろ!)は我々若い医者がよく言われる言葉だった。

筑豊の方言は、福岡とも北九州とも違った。
明治以降炭鉱で栄えただけあって、語気が荒々しい感じだった。筑後地方(久留米市周辺)に近い。
あまり覚えていないが、「そんなん知らんき」(そんなの知らないから)、「しゃあしい」(うるさい、ウザい)。

ところで、「ウザい」(ウザったいの短縮形)は、八王子市の中央大学周辺(八王子市編入前の旧南多摩郡由木村)の方言。元来は、蛇がトグロを巻いている様子をいう。昭和50年代初め、学生運動の激しかった中央大学が御茶ノ水から周辺田んぼの八王子の田舎に移転した。周辺には学生向けアパートが数多く造られ、宅地化も進んだ。既に都心からの移住家族は増えていたが、地元の子供と同じ学校に通ううちに方言も話すようになる。中央大学だけではなく、昭和40年代後半から、都心から同じように移転していた周辺他大学にも学部が増設されて学生数が増えた。しかし、企業誘致より大学誘致に動いた、八王子市、及び商店街の計算は狂い、学生は立川、吉祥寺、新宿に遊びに行ってしまった。巨額のインフラ整備によって、八王子市の財政は逼迫し多摩地区でも最低ランクになった。例えば、下水道整備が東京都で最後に完了した。市立病院の計画も白紙になった。
「ウザい」だけではなく、多摩地区の方言を、最初から八王子周辺に下宿した卒業生が、全国に東京の言葉として持ち帰り、自慢げに話して広まったと、言語学者がNHKの特集番組で解説していた。
八王子移転前は、早慶の法学部を大きく引き離し「法科の中央」だったが、少子化とお茶ノ水にある法科大学院や司法試験予備校へのアクセスの悪さから、受験生からの人気がなくなった。看板学部の法学部だけが、数年前、他の学部の反対を押し切り、御茶ノ水まで丸ノ内線ですぐに行ける、文京区茗荷谷に移転した。

患者やナースと話しているうちに、方言は次第にわかるようになった。英語のヒアリングと同じなんだと思う。そうはいっても、自分ではなかなか話せない。
当時もテレビやインターネットの影響で、典型的な方言は姿を消し、今では標準語と方言が混ざった言葉を話す人が全国で増えてきていると思う。

大学時代、関西出身の友人はいたが、普段は東京の言葉で話す人と、関西弁丸出しで話す人に二分極化していた。
九州出身の人は宮崎、佐賀出身者はいたが
、福岡出身者は一人もいなかった。

2学年上の優秀な先輩のことを以前「筑豊の思い出」に書いた。先生は生粋の福岡人なので、博多弁での会話にしたが、間違っているところもあると思う。自分は話せない。
院生の時、実験(電気泳動や遠心分離)の待ち時間に、気分転換に友人(久留米市出身、久留米附設卒)と「社会勉強」と称して
中洲に行き、食事した後に入った飲み屋で博多弁を話すと、「あなたは東京の人やろ?」と女の子にすぐにバレた。彼女は宮崎出身だった。戻って実験を続けたが、実験さえしていれば、酔って研究室に帰っても注意はされなかった。その店には2人でその後も何回か行った。

大学院の指導教官であった、上村先生も笹月先生も福岡県の出身だが、お二人とも東京での生活が長く、お子様達も東京の育ちで、他大学の教授から九大に戻られたので、怒ったときも含め、完全に東京の言葉だった。
笹月先生とDiscussion中に、実験結果の解釈で私が、「こちらの考え方でもいいのではないでしょうか?」(先生の理論と矛盾していた)と言うと、笹月先生から「いいわけないだろ!」と怒られた。「ダメやろ!」よりはわかりやすい。特に、笹月研究室は何故か全員が東京弁で話していた。最初の頃は医科歯科から九大に一緒に異動した、医科歯科出身者や国内留学していた九大含む他大学出身者が助手として一緒に研究していたからだと思う。
耳鼻科の医局で、筑豊で星を一緒に見た先生に話すと、「ちょうどよかったじゃないか」と言われた。彼によれば、「東京の言葉(標準語)は、我々の(長州藩の)大先輩たちが明治以降に制定したから、山口の言葉が多いんだよ」ということだった。私の祖父母はその長州藩(毛利家)の本拠地、萩市の出身で内務・通産官僚だったので、「時々わざと使う萩の言葉とは、ちょっと違うのでは?」と聞いたが、黙っていた。
研修医の時に、佐賀県の病院からの紹介の、悪性リンパ腫の高齢者の主治医になったが、佐賀の超田舎の出身で方言が強く、のどに腫瘍があることもあり、何を言ってるか全くわからず苦労した。福岡の人にも実はわかってなくて、みんなで陰で大笑いしていたと後で聞いた。
遅れて到着した家族にも方言はあったが、通訳してもらい、私も担当ナースも胸を撫でおろした。

医学用語にも方言の逆のようなものがあった。
胸部のレントゲン写真を「胸写(きょうしゃ)」。頚部郭清術の術前検査で、必要に応じて脳外科の医者と一緒にやる、脳の血管造影を「脳血管写」。
これらは、一般には「胸部X-P(X-ray Photoの略)」あるいは普通に「胸部レントゲン」、「脳血管造影」という。
「ガーゼ交換」は「つけ替え」だった。「看護婦さーん、つけ替えするから付いてくれなーい?あと、ポータブルの胸写頼むから伝票ついでに持って来てー」という風に。もちろん、ベテランナースしかいないときには、「つけ替えするので付いて下さい。」までで、伝票は自分で取りに行った。
話し言葉や検査の手書きのオーダー伝票、カルテの記載(医者により、つけ替えではなく、ガーゼ交換だったが)に使われるのであって、論文や学会発表のスライドで使われることはなかった。
これは、九大に限らず、大正時代末までに設立された古くからの旧制医科大学(戦後新制大学医学部に移行)では、東京帝大から全国に赴任した教授が、当時自分たちが使っていた上記のような用語を使い、そのまま使い続けていたことによると考えられる。金沢大学(旧制金沢医科大学)から日大教授になった先生も同じ用語を話していた。
電子カルテになった今はもう使われていないのかもしれない。