大学院の指導教官であった、上村先生も笹月先生も福岡県の出身だが、お二人とも東京での生活が長く、お子様達も東京の育ちで、他大学の教授から九大に戻られたので、怒ったときも含め、完全に東京の言葉だった。
笹月先生とDiscussion中に、実験結果の解釈で私が、「こちらの考え方でもいいのではないでしょうか?」(先生の理論と矛盾していた)と言うと、「いいわけないだろ!」と怒られた。「ダメやろ!」よりはわかりやすい。特に、笹月研究室は何故か全員が東京弁で話していた。最初の頃は医科歯科から九大に一緒に異動した、医科歯科出身者や国内留学していた九大含む他大学出身者が助手として一緒に研究していたからだと思う。
耳鼻科の医局で、筑豊で星を一緒に見た先生に話すと、「ちょうどよかったじゃないか」と言われた。
彼によれば、「東京の言葉(標準語)は、我々(長州藩)の大先輩たちが明治以降に制定したから、山口の言葉が多いんだよ」ということだった。その先生にはそれまで話す機会がなかったが、私の祖父母はその長州藩(毛利家)の本拠地萩市の出身だった。多くの維新の立役者を輩出した、長州藩校「明倫館」が前身の、旧制萩中学校始まって以来の秀才と言われた祖父は、萩中4年修了(飛び級)で最難関の一高に進学した、内務・通産官僚だったので、「時々わざと使う萩の言葉とは、ちょっと違うのでは?」と聞いたが、黙っていた。
なお、藩校の名称は同敷地に明治初期に建設された祖父の母校でもある、萩市立明倫小学校として存続。また、祖母は旧制萩高等女学校出身だったが、戦後、萩中、萩高女の両校は統合し、新制萩高等学校となり、東京や萩での同窓会に二人で出席していた。
研修医の時に、佐賀県の病院からの紹介の、診断に苦慮した「喉頭原発の悪性リンパ腫」(極めて珍しい)の高齢者の主治医になったが、佐賀の超田舎の出身で方言が強く、のどに腫瘍があることもあり、何を言ってるか全くわからず苦労した。福岡の人にも実はわかってなくて、みんなで陰で大笑いしていたと後で聞いた。呼吸困難も出てきたため、病棟で緊急気管切開術をしたので、本人が手指で前頚部の穴(カニューレ)を塞いでの会話になった。
遅れて到着した家族にも方言はあったが、通訳してもらい、私も担当ナースも胸を撫でおろした。
医学用語にも方言の逆のようなものがあった。
胸部のレントゲン写真を「胸写(きょうしゃ)」。頚部郭清術の術前検査で、必要に応じて脳外科の医者と一緒にやる、脳の血管造影を「脳血管写」。
これらは、一般には「胸部X-P(X-ray Photoの略)」あるいは普通に「胸部レントゲン」、「脳血管造影」という。
「ガーゼ交換」は「つけ替え」だった。「看護婦さーん、つけ替えするから付いてくれなーい?あと、ポータブルの胸写頼むから伝票ついでに持って来てー」という風に。もちろん、ベテランナースしかいないときには、「つけ替えするので付いて下さい。」までで、伝票は自分で取りに行った。
話し言葉や検査の手書きのオーダー伝票、カルテの記載(医者により、つけ替えではなく、ガーゼ交換だったが)に使われるのであって、論文や学会発表のスライドで使われることはなかった。
これは、九大に限らず、大正時代末までに設立された古くからの旧制医科大学(戦後新制大学医学部に移行)では、東京帝大から全国に赴任した教授が、当時自分たちが使っていた上記のような用語を使い、そのまま使い続けていたことによると考えられる。金沢大学(旧制金沢医科大学)から日大教授になった先生も同じ用語を話していた。
電子カルテになった今はもう使われていないのかもしれない。