九大病院での1年間の研修を終え、平成3年6月1日、福岡県穂波町(現飯塚市)の筑豊労災病院に赴任した。全国にある労災病院と同様、当時の運営は労働福祉事業団という労働省直轄の特殊法人だった。粉塵爆発、落盤事故が多発した炭鉱も閉山が相次ぎ、労災保険料が大きな財源の労災病院の経営は順調だった。塵肺や脊髄損傷は依然として発生するが、工場の安全管理も厳しく労災の発生は少なくなった。

病院に隣接して、公宅と呼ばれる宿舎があり、私はそこに住むことになった。上司の耳鼻科部長も部屋は確保してあったが、手術で遅くなる時やお酒を飲んだ時以外は福岡市内からクルマで通勤していた。夜間、休日は、まず下の私が対応し、手に負えない患者の時に駆けつけてもらうということだった。
残念なことに、私が住む部屋は古い建物で、建て直した新しい建物には付いているというエアコンがなかった。当然、空き部屋がでたら移れるように事務に交渉したが、そのままになった。3階だったが扇風機ではキツく、本当に暑いときは、病院の医局で休んだ。

この病院に行くことを希望したのは私で、理由は、お金のある組織だけに、病院は数年前に新築されていて広々とした造りで設備もCTをはじめ最新の機器が揃っていたこと、時々アルバイトでも行っていたことと、なにより毎週大学に研究に来ていた上司の部長の先生が優しかったからだった。医局長も以前勤務していて「症例も多いし、勉強になっていいぞ」と勧めてくれた。他に希望者はなくすんなり決まった。
もっとも、既に筑豊炭鉱は閉鎖され、ボタ山が残っているだけで、宅地化が進み、福岡市のベッドタウンになってきていたが、筑豊はヤクザも多く、クルマの運転には気を付けるように注意されていた。東京23区内と違い、ウインカーは出さないなど、ただでさえ交通マナーの悪い福岡県内だったが、「筑豊」ナンバーの全面スモークフィルムが貼ってあるベンツには車間距離を取るか、一台やり過ごして2台後を走行した。ある先輩からは、「東京から筑豊って、五木寛之の「青春の門」の逆だね」と言われた。

外来の看護婦さん達は顔見知りで、私にとって初めての毎日の外来はスムースに始めることができた。
手術室は病院の最上階にあり、山の上でなにも遮るものもなく、周囲が一望できた。夜は星空が広がっていた。そういう時間のかかる大きな手術のときには、大学から偉い先生を呼んでいた。手術終了後、家族への説明を終えてから、隣の休憩室で出前のお寿司などを食べながら夜空を眺め、大学からの応援の先生が、手術室の「器械出し」、「外回り」の2人のナースに「あれが何座だよ」と教えていたが、「先生すごい!」と感心するくらいやたらと詳しいので驚いた。「明日も朝から下関まで行って〇〇先生の手術の指導だよ」とか言っていて、みんな若かった。
よく応援に来てくれたその先生は、背が高く、おしゃれで格好よかった。「都会人ぶってるが、山口県の下関に近い“ど田舎”の出身(下関西高校卒)なんだよ」と、九大の同級生で同じクラブで同時に耳鼻科医になった別の先生(熊本高校卒)から聞いていた。「あいつは文系人間で、俺たちが高校生当時の(オイルショックによる)景気が悪い時代の医学部ブームに乗って医者になったが、東大法学部に行っていたら、優秀な官僚になっていたと思う。というか官僚向きだな」とのことだった。歴史をはじめ、とても物知りだった。大学の病棟医員室で、私が自分が主治医の癌患者の手術室への手術器具のオーダーを書いていると、「余計なことかもしれないが、これも必要になるかもしれないから書いとけよ」と細かいことにも気が付く、人によってはうるさいと感じる性格だった。実際は何もわかっていないだけだったが、「お前は素直でいいな」と言っていただいた。

手術だけではなく、労災病院の部長が研究で大学に行って休みの時には、他の先生と交代で時々外来の応援(兼私の指導)に来てくれていた。外来ナース達は「〇〇先生って格好いい~」と本人が大学に帰った後に話していた。
先生は後に、大学院で癌の研究をした後に勤務した、古巣の国立九州がんセンター頭頚部外科部長になって後進の育成に尽力した。

私の宿舎の設備は、風呂と内線電話しかなかった。市内通話(かけるところもないが)は0発信でき無料だったが、市外は交換手に繋いでもらった。通話料は給料から家賃、水道光熱費と共に天引きされていた。
さすがに、ポケットベルは持たされたが、まだ液晶表示はないものだったので、誰からかわからず、アナログ(第1世代)携帯電話を持ってない私は、友人、家族には夜に交換手経由で部屋にかけてもらうようにしていた。
1年の予定だったので、出来るだけモノは買わないようにしたが、冷蔵庫などの家電は、量販店で買って3階まで配達してもらった(事務の人にそのままでよいといわれたので、退去時はそのまま置いてきた)。夜、テレビドラマを見ていると、いいところで呼ばれることも多く、持ってきていたVHSビデオデッキは大活躍してくれた。本を読んだり、書き物をするときは、夜でもたいてい誰か医者がいて、ほとんど照明も点けっぱなしの、医局の自分の机でやるので、ダイニングテーブルの代わりは台所のキッチン台としていた。病院の正面玄関に回らなくても、宿舎から近い通用口の鍵を渡されているので、病院の中に住んでいるのと変わらなかった。
夜間外来に鼻出血や異物が来ると、当直の医者から私に内線電話がかかり、寝ぼけ眼で外来に行き診察をすることになる。ひどい場合は入院。
ヤンキーもやってきた。ものすごい改造車で乗り付け、彼女が耳が痛いという。家族ではないので、深夜の広い待合室で待たせて診察していると、当直ナースが「煙草を吸っているんで注意しているんですが、言うことを聞きません」。仕方がないので、注意しに行くも聞こえないふり。「ふざけんな!なめとんのか?ボケ!」と関西弁で恫喝、注意。強気にでられたのは、万が一の時には、用心棒として福岡県警暴力団対策課のOB(パンチパーマでどう見てもヤクザ)が宿舎に待機しているので、助けを呼ぶことになっていたからだった。福岡県警飯塚署からも5分でパトカーが到着予定。
他にも麻薬中毒ではないが、鎮痛剤中毒の常連が毎日のように来院。自分が外科系当直のときでも、内科の医者が忙しいときには診察。仕方がないので、注射を打って帰すしかない。炭鉱がなくなり、多くが大阪、東京に働きに行く中、薬に溺れ生活保護になった、ある意味国によるエネルギー政策の犠牲者たちだった。