今年の医師国家試験が終了したらしい。元NHKアナウンサーの島津 有理子さんが受験したとネットで見て知った。
JG、東大理2、経済学部、NHK、結婚出産、東海大医学部とかなり回り道をしたことになるが、医者になるのは子供のころからの夢だったという。理2に合格する学力があるなら、もうちょっと頑張れば、全国でも難関の関東地方の国立医学部に合格できたと思うが、そこが女子校出身者とその家族の陥る落し穴なのかもしれない。
優秀な島津さんも医学部では苦労したと思う。年齢が上がってから医学部に入学するとかなり苦労する。人間の記憶力は18歳をピークにどんどん落ちていき、経験がそれを補うとどこかで聞いた。教養の2年間は高校の勉強の延長だが、専門課程に上がると医学部の授業はほとんどが暗記、テストの繰り返しだからだ。
教養が楽かといえば決してそんなことはなく、我々の大学では、英語と独語は3科目(教員も違う)が週2コマずつ、つまり、月から土まで毎日、英語と独語があった。前日にクラブがあったりで、夜遅くに帰宅し、予習など間に合うはずもなかった。他の語学の小クラスの同級生のノートが借りられる場合はいいが、1時間目の場合は、先生から当てられないようにとビクビクしていた。特に単位数の多い独語が出来ないと即留年だった。ヘルマン・ヘッセの「車輪の下」が教材だったのだけは覚えている。
新しい学問についていけない人は、専門でも苦労するという専門課程の教授たちの考えからだった。第二次大戦後はアメリカ医学が主流になり、独語が医学の勉強に必要だったのは戦前までの話だが、やるしかなかった。
一年次にあった、一般教養の法学は、法学部の名物教授の講義で、専門の刑法、刑事訴訟法が中心で、土曜日の最後の時間ということもあり、また、ほとんどのクラブは練習もなく皆、興味津津だった。理科の実験・実習は、生物はカエルとネズミの解剖がメインで面白くもなかったが、物理は毎週様々なことを経験出来て楽しかった。楽しかった理由には、化学もそうだったが、先輩から前年の実験ノートをもらっていたので、結果はわかっていて、レポートで苦労することもなかったということもある。研究とは違い、小学校の実験と同じだった。
2年生からは、午前中は講義、午後は夜まで実習であったが、単位制ではなく、学年進級制であったため、留年すればすべての教科がやり直しになる。毎年大学受験をしているようなものだった。1年から2年にかけて試験前に必死に勉強した、独語の文法などは医者になった頃には、すっかり忘れてしまった。運がいいことに大学院の入試では、前年までで独語が廃止になっていた。単語だけは、医者になって他院に出張に行ったときに、年配の医者のカルテを解読するのに役には立った気がする。大学のカルテは、教授の方針で、すべて英語に切り替え済みだった。次第に独語を見る機会も少なくなった。

同級生に東京工大工学部卒, 及び修士課程修了者がいた。医学部進学課程の1~2年は成績優秀で特待生になったが、3年からの専門課程では成績上位を断念した。解剖を暗記するのが大変だったんだと思う。一緒に旅行に行ったこともある彼には、同級生の全員がお世話になった。物理の教授に頼まれて、受験で生物選択だった人の為に、物理選択の人も全員参加して、放課後の教室で物理の補修授業をしていただいた。おかげで、物理を落とした人はほとんどいなかった。
こんな生活をしながら、専門課程の3年生に進級し、基礎医学の解剖学や病理学などの講義・実習、4年前期から5年前期までの臨床各科の講義(この頃の試験が一番大変だった)。なお、5年の4月からは、週の後半は、御茶ノ水の駿河台日大病院での臨床講義が始まった。皆、板橋の田舎からやっと都会に出られるとはしゃいでいて、昼は神田神保町のここで食べようとか計画していたが、初日に4月なのに記録的な大雪が降ったのを鮮明に覚えている。営団地下鉄(当時)丸の内線は何事もなく運行していた。雪の降るなか病院3階の臨床講堂の窓から見える隣の駿台予備校の教室では、浪人生が “来年こそは” と東大目指して勉強していた。
5年後期から6年前期までの1年間、板橋、神田駿河台、両附属病院での臨床実習。初めて乗った隅田川の屋形船での納涼会、その後に行った麻布十番の最大級のディスコ( “マハラジャ” 1年生の時に行って以来。
バブル期の象徴だったが、今や小さな “クラブ” になり皆廃業)といった楽しいイベントに、「先生たちも行く?」と病棟医長から誘ってもらい、板橋病院のタクシー乗り場での若い看護婦さん達の変身ぶりに驚きながら(おかげでディスコは医者も学生もフリーパス、実習帰りなのでネクタイは着用)、連れて行ってもらった診療科もあった。翌日は休日で、明け方まで六本木のカフェバー、ゲームセンターでUFOキャッチャーをしたり喫茶店で更に飲んでおしゃべりして、昼から日勤だという看護婦さんと一緒に高速で板橋に帰還した。費用は女性陣、学生はすべて無料だった。
6年後期は各科の先生による“趣味” の講義(昨日学会で発表したとかいう、結果が正しいかどうかもわからない研究スライドによる。後でその内容から試験もあり正直迷惑。それより国家試験対策をしてほしかった)、卒業試験、卒業式を迎え、4月の国家試験を受けることになる。今は大学設置基準が変わり、第二外国語はやらないところもあり、以前から新設医大で行われていたように、教養科目はそこそこに、専門教育が一部の大学では1年生、多くは2年生から本格的に始まることが多い。大学というより専門学校(戦前は大学医学部はほとんどなく、医学専門学校がほとんど)に通っているのと変わらない。
無事に大学を卒業した島津さんには、頑張って、これから始まる厳しい研修に励んでいただきたい。

自分の時のことを思い出す。当時は、卒業見込で願書は提出するが、大学卒業が国家試験受験の必須条件だった。大学によって、3月31日付での卒業になり、総合大学の母校日大医学部もそうだった。医学部だけ別の日にはできなかった。もちろん、卒業することは、その2週間以上前には決定していた。卒業ができない者は、願書を取り下げ、国家試験を辞退することになる。国家試験日は、4月7日、8日の2日間だったと思う。
試験を一週間後に控え、卒業式(午前の日本武道館での日大全学部のには行かず、午後の医学部講堂のみ出席)、ホテルオークラでの謝恩会もそれほどうれしいとは思わなかった。文部省の会議のため、福岡から上京中の父も謝恩会には来てくれた。
現在は、後で書くが、各市中病院での初期研修制度の開始や人事交流上いろいろ問題があったため、医者が4月にすぐ働けるようにと、国家試験の日程が2月の初めになり、合格発表も3月下旬になった。昔と比べ2か月早い。おそらく各大学の卒業式は3月初めが多いだろうから、どんちゃん騒ぎをするのであろう。
試験当日、会場の茗荷谷の拓殖大学に行った。前日に実施された、看護婦国家試験の時間割が黒板に大書きしてあった。これは、厚生省の事務官が入室して書き直した。
試験はすべてマークシート。全部で5科目。ただし、2日目の2科目の臨床症例問題は一問ずつの配点が大きいのと、3個問題があって、配点がまとめて10点とかで割り切れない。当時、厚生省から正解は発表されず、国家試験予備校の正解を見るしかなかった。しかも、各予備校で解答が割れる、いわゆる不適正問題もあるから訳が分からない。
我々日大出身者にとって幸いだったのは、同じ教室で受験した他3大学が、どこも大したところではなく、例えば、私の前席の受験生は、例年合格率の悪い大学を前年?秋(9月)卒業(机上の受験票に卒業年月と卒業大学名が書いてある。秋卒業って?もしかして、国家試験が救済措置の年2回から年1回になる前からずっと受けている人?しかし、私が入学する前から年1回だった。合格発表で、一つ前の彼の受験番号はなかった)で焦ることがなかったことだと思う。
同級生と帰りに話したが、これが東大や医科歯科に囲まれたら(前後左右は必ず本人とは違う大学)、すぐに問題を解き終わって、出て行ってしまい、焦ってできるものもできなくなって、終わっていただろうということになった。2日間の試験で、2人とも体力を使い果たしクタクタで、池袋で食事してすぐに帰った。

入局先は、九大耳鼻科と決まっていた。
5年生の夏休みに入局希望者は全員面接に来るように言われ、将来一緒に働くことになる他大学の学生計8人と初顔合わせをし、外来、病棟、手術室の見学をしていた。
幸い、医局長から、教授が8人全員採用予定と言っていると聞いた。
安心していたら、6年生の夏にも再び来るように言われ、勉強の計画はすっかり狂った。
一方、東大出身の教授が優しく、「勉強も大事だが、生活はもっと大事だ」とアルバイトに沢山行かせてくれて、金回りの良いクラブの先輩も多い、日大の消化器内科も考えていた。