母校桐朋学園の同窓会報が届いた。
幸いなことに、通常はどこの学校でも払うであろう、年1回の会費はない。確か高校の卒業式のあとの謝恩会費と一緒に「永年会費」を親が払ってくれた。だから、同窓会報は毎年必ず送られてくる。ちなみに大学の同窓会費は、10年以上前に、10年分まとめて10万円払ったが、その後は、会費が値上がりし、それ以上の滞納があるが、請求書は見ないことにしている。滞納が多いらしく、前払い10年分で1年分割引という制度が始まったが、どれだけの人が利用しているのか。死亡した場合は返金するというが、家族は手続を忘れると思う。過去の分には適用されない。クラス会は別会計で、参加者は事前に会費を銀行振込するので、行かないわけにはいかない。
会費といえば、学会費、同門会費、医師会費(これが一番高い)他、次から次に請求が来るが、仕事に直結するものは払わざるを得ない。

先日、大学のクラス会がコロナ後初めて、いつもと同じ池袋のホテルで開催された。各科の最新の治療法を、教授として活躍中の同級生が5人、学会形式で発表してくれた。その後の懇親会では、近況を全員が報告した。私は二次会で帰ったが、遠く高知から上京した同級生と新宿駅までダベり、再会を約束し別れた。次回は3年後くらいだろうか。幹事は各クラブの持ち回りと決まっている。

さて、同窓会報が来ると、誰でも昔を思い出し、先生や同級生の顔を思い浮かべることだろう
今回届いた同窓会報には、今年の初めに亡くなった、ある英語の先生の追悼文が載っていた。私は習ったことはなく担任でもなかった。それぞれ学年は違うが、4人の教え子が追悼文を寄せていた。
その中の一人が、面白いことを書いていた。
高2、高3の2年間担任だったという。
今と違い、当時の桐朋には、多摩地区の最優秀層が集まり、例年45~50人の東大合格者がいた。

わが学年の断トツのトップは、吉祥寺出身で天才的に出来た同じクラブの仲間のO君だった。みんなが勉強法を聞いたが、「うーん、なんとなく教科書と問題集をやってるだけだよ」。数学のクラス(一応最上位のA組、問題集のレベルが高い)で落ちこぼれの私が50点、60点しか取れなくても、いつも100点満点で先生から成績優秀者として名前を発表された。しかし、私が授業前に黒板に模範解答(授業はそれを添削しながら進む)を書こうと、ノートを見せてもらっても、ミミズが這っていて読めない。本は読まなくても国語もできた。夏期講習など予備校には行かず、駿台予備校の模擬試験のみ。全国100番以内の常連だった。当然のように東大理科1類に合格した(慶応医学部も正規合格)。医者になる気がないのに慶応医を受けたのは、東大しか受験しないと聞いた親戚が「受験料5万円を出すから模擬試験代わりに受けてよ」と強引に受けさせたからで、仮に受験していれば、試験問題は同じだが我が国最難関の理科3類(医学部)にも当然合格していた。他の理科1類の同級生によれば、駒場での成績も平均点は90点以上で、進学振り分けで希望の理学部化学科に進学した。てっきり物理学科だと思っていたが、化学科だった。
月日が経ち会ったときに、愛知県岡崎市と並び日本の頭脳集団と言われる筑波の理系研究者の子弟の多い、県立土浦一高に通っているというご子息の話から「子供に数学や物理の問題とか聞かれて答えられるの?」と聞くと、「普段は研究には関係ないからいきなりはわからないけど、公式を見ればあとはできるかな」と天才ぶりを発揮していた。横にいた現役で千葉大医に進学した医者に聞くと「全くわからないから聞くなと言ってるよ。俺達には無理だよ」と言っていたので安心した。彼とは子供が同じ学校に通っていたので、文化祭で待ち合わせして、バレーボールの試合を応援後、食事したことがある。
大学時代は皆で吉祥寺や渋谷によく飲みに行ったが、それぞれの仕事がある程度落ち着いてきた頃に再び会うようになった。その頃彼は、筑波の国立研究所で研究をしていて、時々、研究の邪魔にならない日に都内に出てきてもらい皆で集まった。幹事が折角だからとあちこち声をかけ結構な人数になった。一度もクラスが一緒になったことがなく、話したこともなかった同期生ともすぐに打ち解けることができた。隣のクラスの友人のところに遊びに行って、顔見知りだった男(柔道部なのにイジラレキャラ)は、慶応経済学部卒業後に就職したが脱サラして、公認会計士兼税理士になっていて、現在は地元の国分寺で会計事務所を開業しているという。税金関係で困ったときはお願いすることにした。
「持つべきものは友」だ。
話の中心は筑波での研究の話で、何をやってるか聞いても難解で誰も理解できず、素人でもわかるように簡単に説明してもらうと「それがうまくいったらノーベル賞じゃないの?」というような話で、本人は「うまくいったらいいな~」と中学1年生の少年の時と同じ優しい笑顔で応じていた。穏やかな性格で争いごとは嫌いだった。父親が弁護士さんなのは昔から知っていたが、4人兄弟の残り3人も全員弁護士になっていたので、次男の彼は弁護士業務の本質である「喧嘩の仲裁」はしたくなかったのだろうと勝手に推測している。

我々同級生からは「ノーベル賞に最も近い男」と言われていたが、数年前、志半ばで病のため亡くなった。
私たちが最後に会ったのはその約半年前だった。半身麻痺のため、車椅子で奥様と一緒に来られた。出来るだけ負担をかけないようにと、幹事が東京の自宅の恵比寿に近い恵比寿ガーデンプレイスの店を予約してくれた。主治医から少しならお酒を飲んでよいとのお許しも出ていて、皆結構飲んだ。話す内容はいつも同じで、高1の時、仲間の家に泊まりに行って飲みすぎて酔っ払ったこと、他にもいろいろ悪さ(犯罪ではない)をしたこと、いつも学校帰りに寄ったラーメン屋がなんで潰れないのかと思うくらい安かったこと、そして味も悪くなかったこと、夏に船で旅行に行った楽しかった思い出など、もう話すことはできないと思いながら、心では泣きながら語り合った。なんでこんな天才で純粋でいい奴が。帰り際、駐車場で力の入るほうの手で握手したのが今生の別れとなった。病状がかなり悪化し亡くなる直前まで、都内で最先端の治療を受けながら、奥様の運転する介護仕様のクルマで筑波の研究室まで通い、実験と論文を書いていたと伺った。ご子息が東大工学部の院から財閥系の一流企業に就職が決まったことを、意識が混濁する前に聞いて知っていたと聞いて、何か救われた気がした。

(以下は同窓会報からそのまま引用)

先生のあだ名は「ズボラ」。
(略)
そんな先生が皆から喝采を浴びた出来事があった。年に1回クラス単位で1泊旅行をする「クラスの日」の夕食が終わりかけたとき、先生から就寝までの注意があった。
「これから俺は部屋に帰って寝るけど、酒を飲んでいいと言っているわけではないぞ。ただし、タバコはだめだからな」
クラス全体から大歓声が上がる中、先生は少しはにかんだような笑顔を浮かべ、後は何もおっしゃらなかった。
先生は、とにかく生徒たちに無駄な束縛をしないで、のびのびと個性を発揮させてくれた教育者だと思う。

個人的な思い出をひとつ。僕は早稲田大学教育学部英語英文科に進学して、4年生の秋、母校で教育実習をすることになっていた。
しかし、当時は9月から就職活動が始まる時代だった。マスコミ志望だった僕が、先生に断りの電話を入れたところ、
「これからの長い人生何があるかわからないんだ。取れる資格は取っておいたほうがいいぞ。」
と熱心に慰留していただいた。あんなに熱く語る先生は初めてだった。
のびのびと自由にさせていただきながら肝心なところでは、心から親身になってくださった。

(引用ここまで)