追記

歌手の井上陽水さんは、飯塚からクルマで40分くらいの、同じ筑豊の福岡県糸田町の出身。
研修医1年目のときから、糸田町立病院に交代で出張アルバイトに行っていたので、美人の外来ナースから聞いて知っていた。
当時は、国道201号線は飯塚から先は何もない一本道で、初めて行った時は、沿道にパチンコ屋と飲み屋の看板があるだけでいつまで走ればいいのかと不安になりながら、ナビゲーションもなく、先輩方に聞いた目印の、旧筑前国と旧豊前国の国境の「烏尾峠」の標識を見て、峠越えをしてやっとたどり着いた。
なお、「筑豊」地方とは、筑前(福岡藩。藩主は黒田家)と豊前(小倉藩)から取ったものである。

私が筑豊に住んでいる時にも、週2回の午後からの外来には、2学年上の国立九州がんセンター勤務の優秀な先輩と交代で行かせてもらっていた。
その先輩は、私たちが1年目の6月に北九州市立小倉病院(現北九州市立医療センター)から大学に戻ってきて、一番患者を多く受け持ってバリバリ働いていた。とても明るい性格で、研修医指導係として何でも教えてくれる頼れる兄貴分だった。スポーツマンで格好良かった。耳鼻科は若い病棟ナースが多かったが、彼女たちからも人気があった。先生の指示簿は受付時間外でも文句を言う人はいなかった。私も含め周りの医者も便乗したことは言うまでもない。
ある時は、午後の閑散とした外来で、若い女性を診察していたので誰かと聞くと、修猷館高校の同級生とのこと。「先生モテますね」と私が言うと、「同級生で耳鼻科医になったのは俺だけやから頼りにされてるんよ。」と謙遜していた。

4月に「大学におってもキツいばかりで、手術はやらせてもらえない。手術がしたいんよ」と、九州がんセンターのレジデントを希望して異動していた。時々、バイト帰りの夕方に、労災病院にも遊びに来てくれて、「どうや?戦力になっとるか?」「なんとか・・・」。件の糸田町立病院の耳鼻科に付いてくれる外来ナース(30代前半、既婚)が美人であるということで一致して盛り上がり、「(その)○○さんから聞いとるよ、結構しっかり診察しているみたいやな。いつも通り、注意点はカルテに書いとったよ」。先生は既にかなり手術の腕も上がり、普通なら最短7~8年はかかる、癌の頚部転移を周囲の組織と一緒に一塊として摘出する「頚部郭清術」を「俺は4年目にして再発防止処理まで含め出来るようになったんよ」とのことで、すごいことだった。共通一次試験で970点取って、自分でも驚いたと聞いていたが、改めて先生の優秀さを再認識した。形だけやったとしても、この手術が未熟だと、必ず局所再発、全身転移することになる。
5年、10年生存率はその施設の術者の能力をはっきりと示す試験みたいなもので、病院選びの指標になる。

「患者が待っとるから、そろそろ帰るよ。お前も元気でな」と福岡に戻って行った。先生は医者になるまで一度も福岡市内から出たことのない、生粋の「博多っ子」のエリートだった。
その年の11月中旬、一緒に京都の頭頚部腫瘍学会に行き、学会にもしっかり参加し、その後、観光タクシー割り勘で、大好きだという京都寺院巡りをした。
現在、若くして亡くなった耳鼻科医だった父親の病院を再建し、独り勝ちの大盛業という。

糸田町は、エネルギーが石油に転換されるまで、最も石炭産出量の多かった地域で、貨物列車の線路が網の目のように敷設され、採掘した石炭を満載にして、八幡製鉄所(新日本製鉄)をはじめ北九州工業地帯に運搬され、小倉港から全国に輸送されていたという。
筑豊の町は活気に溢れ、町立病院がどの町にも作られた。
ちょうど、「少年時代」が大ヒットした頃で、カラオケでは必ず曲が入った。あの曲を聴くと、病院最上階の手術室からの景色を思い出す。筑豊の情景が浮かぶとてもいい曲だと思う。